日本共産党千葉県女性部長 浅野ふみ子

浅野ふみ子物語

 

核廃絶署名集め

親に負担はかけたくない

十五歳で親元を離れ

ご両親の離婚や失職、再婚があり、きょうだいは六人に。家計を助けようと、子どものときから、しんぶん「赤旗」の配達を続けてきました。路面が凍ることもあった冬は、怖かったといいます。
「親に負担はかけたくない」「早く自立したい」─。そんな思いの十五歳の少女がえらんだ道は、木更津市にある国立高等工業専門学校への進学でした。埼玉の実家を出て自活し、専門の技術を身につけようと思ったのです。

自然を押さえ込んではだめだ、仲良くしなければ…

人と自然の調和を願い

 

友人たちと海水浴場で

選んだのは土木工学科でした。子どものころテレビで見た、長野県での大規模な土砂崩れの映像が、目に焼きついています。
自然の底知れない大きな力が、家をつぶし道を押し流す。「かなわないな」と思いました。「自然を押さえ込んではだめだ、仲良くしなければ…」と感じました。人と自然が調和する仕事をやってみたい。土木技師になる「夢」がふくらみました。

はじめて身につけた時の感動は、忘れられない

ヘルメットの似合う女

入学した土木工学科は、四十人のクラスで女子学生は三人。ヘルメット姿の若者たちがうつる卒業記念旅行の写真には、「ヘルメットの似合う女」といういたずら書きが。
ヘルメットと安全靴は、土木の仕事の〝制服〟です。「はじめて身につけた時の感動は、忘れられない」といいます。
それほど、土木の仕事は憧れでした。それだけに、相次ぐ公共事業をめぐる利権あさりや腐敗事件への怒りがわきます。

苦しい思いをする青年をつくらせない

目いっぱいのアルバイトで

家からの仕送りはゼロ。学費も生活費も、奨学金と目いっぱいのアルバイトでまかないました。中華料理店、居酒屋、家庭教師…。
覚悟していたとはいえ、学校が終わったあとの連日のアルバイトは、体にこたえます。
勉強をしたいだけなのに、経済力のあるなしに左右される日本はおかしいと思いました。
「苦しい思いをする青年をつくらせない」──浅野さんが政治を志した原点です。だからいま、奨学金という重い借金返済のため、ブラック企業でもがまんする…。そんな社会を変えたいのです。

土質調査や測量実習は、たまらなく楽しかった

背筋がピンと

野外の土質調査や測量実習は、「たまらなく楽しかった」といいます。いまも、平和行進に、三番瀬の調査にと、フットワークは軽い。
でも授業では、バイト疲れの体に、眠気がジワッとおしよせます。
そんなある日、先生が黒板に、山の絵を書きました。大量の雨によって頂の部分が崩れだし、斜面がスプーンですくったような形で滑り落ちる「これを円弧すべりという」─。
その瞬間、「あれだ」と思いました。土木にすすむきっかけとなった、長野県の土砂崩れのテレビ映像とそっくり同じです。背筋がピンとなりました。

みんなが力を合わせれば、大きなことができそいうだ

「赤旗まつり」での決断

浅野さんが入党をすすめられたのは、夏、十八歳の誕生日。「共産党の人たちは、裕福そうではないけど、まじめに生きている。それに暖かそう」と思っていました。でも、いまは学校とバイトでいっぱい、いっぱいだ…。
秋の「赤旗まつり」。はじける笑顔、エネルギーに「みんなが力を合わせれば、大きなことができそうだ」と励まされました。「世界では学費ゼロが当たり前。そんな日本を一緒につくろう」──決断に、時間はかかりませんでした。

つらかったけれど、あきらめないで良かった

君津地域初の女性土木技師

 

工場現場で

一九九一年三月、木更津高専を卒業。木更津市役所の土木部建設課に配属されました。君津地域初の女性土木技師の誕生です。
また、新たな挑戦がはじまりました。
現場のおじさんたちは、ヘルメット姿の若い女性技師をかわいがってくれました。でも、初出勤での「何で、女のくせに土木なんか選んだんだ」という言葉。「男の職場」という雰囲気は強烈でした。
いま「土木女子」が増えていると聞き、「つらかったけれど、あきらめないで良かった」と思っています。

みんなの暮らしに生きる仕事をやりたい

土木は人の役に立つもの

初めての仕事は、自衛隊木更津基地沿いの道路の拡幅でした。交差する県道も立派で、交通量も少ない基地フェンス沿いの道路。「広げる意味があるの、だろうか?」─税金のムダ遣いのように思えて、気が滅入りました。 反対に、地域の人たちが困っている不便な道路が、見違えるように改善されて、みなさんに喜ばれたときは、とても嬉しかった。
「土木とは本来、人の役に立つもの」という思師の言葉。自然破壊の巨大事業でなく、お年寄りや子ども、みんなの暮らしに生きる仕事をやりたいという思いがつのります。

自分の道を自分で見つけて、前にすすもう

高校生たちの相談役として

就職し暮らしが安定した浅野さんは、民青同盟(*)の活動に力を入れました。南総地区委員会の高校生担当になり、「もっと勉強が分かりたい」「自分の居場所がほしい」という願いにこたえ、片道六十キロの館山市まで毎週出かけました。
「ソックスの色や形まで縛られるのはいや」と広がった署名運動。「おかしい」と思うことは、みんなで声をあげようと励ましました。
高校生キャンプでは、夜通し語り合いました。両親が離婚しそうと泣き出す女子生徒には、「自分の道を自分で見つけて、前にすすもう」と、自らの体験も語って。

日本共産党を相談相手に、青年の要求実現や未来の担い手としての学習にとりくむ、個人加盟の青年組織。

*民青同盟=日本共産党を相談相手に、青年の要求実現や未来の担い手としての学習にとりくむ、個人加盟の青年組織。

ー人じゃない仲間がいる

再び、新しい道に挑戦

仲間たちと合宿

一九九六年、みんなに推されて千葉県の民青同盟で初の女性県委員長に。安定していた市役所の仕事をなげうって、民青同盟の専従役員になるときも悩みました。でも「新しい道に挑戦する」「一人じゃない、仲間がいる」…。決めたからには突っ走る。
駐輪場の有料化に、「暗い夜道を歩けというの」とはじまった署名運動、使い捨てにされるフリーターたちとの労働条件の学習会。青年の要求あるところ、県内を飛び回りました。

いっしょに考え、いっしょに成長しよう

「ふみねえ」の電話代は4万円

仲間たちと学習

労働条件のこと、恋愛や結婚のこと、学校や進路の悩み。競争に追われ、将来が見えにくい青年たちは、本気でうけとめてくれる相手を求めていました。
そんな青年たちに、「とにかく聞く。いっしょに考え、いっしょに成長しよう」という浅野さん。相談の電話が深夜までかかってきます。自宅と携帯の電話代が、月四万円になることもありました。いつしか、浅野さんは「ふみねえ」と呼ばれるようになりました。

ーからの勉強、そして現場に足を運び学ぶこと

走る、走る

防衛省交渉

二○○○年。三十歳を節目に、日本共産党の千葉県常任委員に選ばれました。 一からの勉強、そして現場に足を運び学ぶこと。三百項目におよぶ対政府省庁交渉の段取りとまとめも経験しました。またまた、初体験のオンパレードです。
そして極めつけは、2002年、参議院千葉選挙区の予定候補への決意。自民党政治のゆきづまりは、前参院議長の利権疑惑による辞職、補欠選挙というドラマをはじめました。
いきなりフル回転に突入した候補者活動。街頭での見知らぬ若者の「ふみ子~ 、がんばれ~ 」の声援、そして「私の憧れた人の役に立つ土木の仕事。それを汚すものは許せない」の思いを力に、がんばりました。
その後、7度、国政選挙に挑戦。いま、憲法をこわす安倍暴走政治と真正面から対決し、「千葉選挙区の自民議席をゼロに」と走りつづけます。